猫になりたい

写真において、その人らしさを形成する要素として、大きく分けて、視点、距離感、色彩の三つがあると考えています。撮影者がそれぞれをどのように定義し、どれくらい一貫性を持って取り組むかが、その人らしい写真の輪郭を描くひとつの秘密になる気がしています。
 
このうちの「距離感」については以前、『主観と客観を超えた眼差し、その距離感』で自分の考え方に触れました。これは”ゴースト”という、未来に死んだであろう自分自身を架空の匿名的な存在に見立て、その目線に立って撮影することにより、写真そのものを「わたし」ではなく「あなた」が見ている世界に置き換えようとするものでした。ある日、子供を撮ろうした時、自分の生まれ変わりをそこに見たことに起因しています。
 
主観と客観を超えた眼差し、その距離感
https://note.com/hideakihamada/n/nf39e4d10b5e2
 
そもそも、撮影において対象についてアングルや構図を切る際「これは一体誰の目線なのか?」という問いが常にそこに立ちはだかっています。なぜローアングルなのか、なぜ手前に物があるのか、なぜ高いところから俯瞰するのか… といっても、日常のあれこれをスナップするとき、そこまで複雑に考える必要はないはずです。写真は、同時にもっと自由で軽やかに楽しめる行為であってほしいとも思います。
 
それでも、もしカメラを構える自分自身という存在が一体何であるかを考えるなら、通常は、自分は自分であるという認識で対象に向き合うことがほとんどではないでしょうか。それによって、自分と誰か、自分と世界、という関係性がカメラを介して生まるはずです。だからこそ「カメラ」という、生身の人の目ではないもので何かを見るという行為が、不自然で作為的なものであることを無視できなくなるのです。
 
例えば、日常のスナップからさらに踏み込んで、お芝居のような「予め設定された状況」を撮影するとき、カメラが一体誰の目線によるものなのかを考えることは、より必要になってきます。演技という虚構をそこにはいないはずの人間が、カメラやレンズという機械で恣意的に映すことの不条理を、不思議なことに誰もが当たり前のこととして受け入れて映画やドラマ(やその写真)を見ています。すべてが用意された場において、そもそもその状況を見ているのは誰であるのか? 鑑賞者が混乱せずに観るためには、カメラに誰の目線を割り当てていくのかがとても重要になってきます。

何度も繰り返します。そこに写るのは一体、誰の目線によるものでしょうか。思いつくのは主観や客観といったものです。しかし、それ以外にはもうないでしょうか? そう考え始めると、撮影者の存在(あるいは不在)をどう捉えるかは、撮影という行為が宿命的に抱える命題であり、結局は避けては通れない考えなのだとだんだんと気づきます。
 
ここでようやく話の核心に迫ります。この目線の起点を定義するひとつの鍵として捉えたのが”ゴースト”という概念でしたが、それが観念的すぎることも理解しています。一体何の話をしているのかと自分でも思います。そこで、この概念をより具体的な存在に置き換えてみようと考えました。だとすれば一体何があるでしょうか。
 
人が住む日常の世界にいて違和感がない。視界に入っても時には見過ごされる。反対にそれに見られていることを意識しないでも済む。興味がありそうでも、なさそうでもある。コミュニケーションがぎりぎり取れる、もしくは取らなくてもよいところにいる。ある種の透明性を帯び、傍観するようにして私たちの世界をあらゆる角度から見つめている、かもしれない存在…

それは「猫」なのかもしれません。街角で見かけたあの猫は一体何を見つめているのだろう、そう思ったことはありませんか。気づかれることも、気にされることもなく誰かが生きているのを少し離れた場所からそっと眺めている(ような気がする)猫たち。私たちが住むこの日常においてこれほど稀有な存在は他にないかもしれません。
 
つまり、”ゴースト”の距離感によって撮られた写真が、実は猫が見つめていた光景なのだと思えば、いろいろなことが突如として腑に落ちるのです。死んだ人間が生まれ変わったのが、猫。私たちが猫を見つめているのがこの世界なのではなく、猫が私たちを見つめているものこそがこの世界なのだと捉えてみます。その目線をカメラに置き換えれば、世界の見え方や対象への距離の測り方がより具体的になる気がしています。
 
さて、「撮影者の存在をどう捉えるか」の主張のひとつに「ファインダー越しの私の世界」というものがあります。SNS時代以降において広く使われるようになりました。これを「世界」(対象)との距離は、常に「わたし」(撮影者)という存在を起点に測られており、「わたし」なしには「世界」は存在しないというゆるやかな態度が実際の距離感として写真に表出しているのだと解釈しています。撮影者の足元が写っていたり、空にかざす手が写っていたり、原則的に、カメラ=撮影者である自分自身、という主張が自動的にそこに写っています。

一方、なぜ、わざわざその起点を自分自身ではない”ゴースト”(例えば猫)のような匿名的で高次元の目線にして、そこからの距離を測って写真を撮るのか。なぜなら、そうすることで写真に写る光景を見ているのは撮影者である「わたし」ではなく、鑑賞者である「あなた」にすることができるかもしれないからです。そのために必要なのがこの付かず離れずの「距離感」なのです。撮影者の存在が透明化し、写真を見ている「あなた」がまるで、写真に写るその場にいるかのようになること。そういう写真が撮れたらいいなと思っています。
 
写真を撮る人なら起点がなんであれ誰でも意識、無意識に関わらず対象への距離を測っているはずです。その距離感を猫で捉える必要はどこにもありません(結局また何の話をしているのだろうと思いました)。しかし、撮影者がカメラというある種の不条理な存在に真摯に向き合ったうえで、対象をどう撮るか、そもそもカメラの存在とは? という問いを自覚的に考え、距離の測り方を固有に一貫させることは、写真がその人らしいと信頼するときにとても大切なひとつの要素になる、そう思っています。