世界を見つけるということ

「木洩れ陽」が好きでよく撮ります。美しいですよね。木々の隙間から光が射して映し出されたそれ。風に揺れるとまるで小さな子供たちがダンスしているようにも見えます。この言葉を生み出した豊かな感性に憧れます。ところで英語では「木洩れ陽」を一言で表せられないそうです。

 

それは ”sunlight filters through the trees” のようなセンテンスで表現されるそうです。同じように日本語でも一言で表せられない現象があります。たとえば ”Petrichor(ペトリコール )” は「雨あがりの地面の匂い」を意味するそうです。ああ、あの匂い! みなさんもきっと知ってますよね。このように世界には一言で他の言語に翻訳できない言葉がたくさん存在しています。これは一体何を意味していると思いますか?

 

わたしたちは何かを見つけたとき、まず言語化しようとします。例えば「暑い」や「そよ風」も「好き」だってそうですよね。かつては名もなき現象や感情だったそれに誰かが言葉を与えました。みんなが共通して持っている、でも言語化できていないこと。言葉になってはじめてその感覚を広く共有することができますよね。つまり言葉を与えることはそれに価値や意味を与えるのと同じなのだと思います。

 

しかし、これはそもそもその感覚や現象を認識する、つまりそれを見つけ出さないとできないことですよね。英語では「木洩れ陽」は「木々の隙間から射す光」のように単なる事実として認識されています。一方、日本語ではその事実になにかしらの価値を見出しているような気がします。例えば、美しい、綺麗、というような。それを見つけ出す「眼差し」があるからこそ生まれた言葉なんですよね。

ある友人から聞いた話があります。海外に行ったとき木洩れ陽を撮っていると「一体何を撮ってるの?」と現地の人に不思議がられたことがあるそうです。まさに「木洩れ陽」に対する見方の違いを物語るエピソードだと思いました(もちろん日本でなくてもそれを美しいと感じる人はたくさんいるはずです)。かんたんに見過ごしてしまうようなありふれた風景も見方を変えることで豊かで美しいものにもなりえます。ここまできたらもうピンときたかもしれませんね。そうなんです、この話は「写真」と同じだと思いませんか?

 

撮ること、それは「世界を見つける」ということなのだと思います。写真は世界を見る眼差しそのものなんですね。みんなが感じている、でもまだ言葉にさえなっていないこと、写真ならそれを写すことができるんです。ああ、それそれ、わかる! というような… もっと言えば、まだあなたしか持たない感情やあなたしか見ていない風景を言葉のかわりに写真にすることだってできるのです。写真を言葉で説明する必要がないときがあるとすれば、それ自体が言葉だからなのです。そして、写真があたらしい言葉たり得るなら世界に対する認識もまたまったくあたらしいものになるはずです。世界という文章を写真というあたらしい言葉で切り取っていく。わたしたちが世界に何を見ているのか(あるいは何を見ていないのか)、それを表せるのが写真なんですね。

 

ところで「懐かしい」も一言で翻訳するのが難しい日本語らしいですよ。

※このテキストは写真本「ひろがるしゃしん」に収録予定です。