表現の純度とポピュラリティは両立するか

実は「バズ」っている写真を見かけたらミュートしています(ごめんなさい)。なんだか不穏な出だしですね。でも、これには理由があるんです。

 

SNSではその仕組み上、宿命的にある種の「わかりやすさ」が必要とされています。それまでは「普通」だった(と思われる)ようなことこそが、たくさんの人に「共感」を持って見られたりします。しかし、それは「マウント合戦」の元にもなります。「何をいまさら当たり前のことを言ってるんだ」というように。さまざまなモチベーションの人がいるからこそ起きる軋轢です。

 

写真は、誰でも簡単にできて発信できる表現の代表格である一方で、現代アートのようなハイコンテクストな写真や広告のような商業写真の領域に、意識、無意識に対抗する場としてSNSでは誰もが「写真家」になっていきました。ぼくもその端くれとして生きやすさを見つけた一人です。

 

しかし、その先には必ず「表現のコモディティ化」が待ち受けているのです。先鋭的で個性的だったはずの表現が広まるうちにいつの間にかありふれたそれに見えてしまう現象が起きてしまいます。たくさんの人に見てもらえるように写真がトレンドに最適化されていくことと、そうでないようにあろうとすることのジレンマが、SNSでは常にグラデーションのように交わり渦巻いています。

そんな状況のなかで自分の立ち位置を見失わずいるのはとても難しいことです。それで冒頭の一文に戻るのです。つまり「バズっている写真はすべてミュートする」理由とは、そのジレンマや軋轢にまきこまれない状態を意識的につくること、なんです。そして、同時に自分が「バズ」ることも望んでいないのです。それは「普通」やコモディティ化する状況の消費に加担しない、ということでもあります。

 

ただ、これは構造的に常に現在進行形でトレンドを追っていくSNSに対する「死」を意味するかもしれません。下手をすると自分自身という蛙を狭くて深い井の中に追い込むことにもなってしまいます。時流を読むことができず筋違いの方に向かってしまうかもしれないのですから。(とはいえ、現実ではむしろあらゆる方法で写真にまみれて生きています)

 

しかし、それでも表現の純度を高めながら、同時にポピュラリティも担保することはできないのか? バズという論理の外でどう写真を生み出していくか? その文脈に回収されずにそれでもたくさん見てもらうには?

 

一見、矛盾するように思えるその問いに答えるような作品はあります。例えば、最近では映画『パラサイト』がよい例になっていると思います。重層的なコンテクストで構築されているにもかかわらず徹頭徹尾楽しく、それでいてどこにもなかった作品になっています。コンテクストがわからなくても楽しめる、コンテクストがわかるともっと楽しめる。格差社会、学歴社会、気候変動などさまざまな文脈があるにもかかわらず、ただ観ていても楽しい映画なんですよね。難解な背景とエンターテイメント性が高い次元で同居しています。そして、結果はみなさんもご存知のとお『パラサイト』は世界の数々の映画賞を受賞しました。

3年前『#もしもSNSがなかったら』という企画で「いい写真」と「いいね!な写真」の違いについて考える展示をしました。それは、同じ一枚の写真をさまざまな方法で見てもらったとき、それでも評価は同じになりえるのか、という仮説を立てた実験のようなものでした。結論はあえて提示しなかったのですが、それはそれぞれが考えるきっかけとなる状況をつくることが目的だったからなんです。

 

SNSにおいて表現の純度とポピュラリティは両立するか、自らの独立性を保ち、プラットフォームに依存しない写真を生み出すことはできるか、そもそも、もしもSNSがなかったら何を撮るか、それについてずっと考えてきました。写真はメディアやプラットフォームによって、目的も、意味も、着地点も、求められるクオリティも変わります。さらに個人それぞれの多様な意識やスタンス、モチベーションもあります。ゆえに本来、同じような評価軸で見てもらうのは不可能なことなんですよね。それでもこの問いに向き合い、立ち向かいたい、それをやめないでいたいのです。

 

ものすごいスピードの流れのなかで、いま一度立ち止まり「もしもSNSがなかったら」それでも何を撮るか? あの展示から年月が過ぎた今、むしろ深く考えていきたい問いかけのように思います。