写真は言葉、写真は時間

私は一体何を撮っているのだろう? そんなことを考えた経験はありませんか。もし答えがあるとして、それは人それぞれ、きっと多様なものになると思います。というより、なんだっていいのかもしれません。それでもあえて問い続け、何かを導き出そうとする行為は決して無駄ではないはずです。

 

こんなワークショップを考えました。

 

例えば「写真を《言葉》にしてみよう」という思考のレッスンをしてみます。その後、反対に「言葉を写真にしてみよう」を、そして最後に「《時間》を言葉にして、それを写真にしてみよう」を実践してみます。おそらく普段はやらないような、やる必要がないようなことをあえてやってみます。もしうまくいけばいろんなものごとの見え方が変わるかもしれません。

前編
「写真を《言葉》にして、それを写真にする」
言葉にできないからこそ写真を撮っている、そういう人は多いかもしれません。でも、それは裏を返すと「写真は言葉」でもあると思いませんか? まず初めに、写真を言葉にしてみて見えてくることについて考えてみます。ただし、ここでいう言葉は「説明」のことではありません。それはまるで詩の欠片をつくるような作業になるかもしれません。そして、その思考を踏まえて再び写真を撮ってみます。

 

後編
「《時間》を言葉にして、それを写真にする」
写真を言葉にすることについて考えました。実際、撮ってみることで何が見えるようになったでしょうか? 次は、さらに踏み込んで写真が本質的に抱えていることについて考えます。それは《時間》についてです。そもそも写真がなぜ《時間》なのかについて考えながら、再びその《時間》を言葉にすることで、はじまりの問いについての答えを見つけていきます。私たちは一体何を撮っていたのでしょうか?

ワークショップの話はここまでです。さて、あなたに何が起こるでしょうか?

 

 

言葉にできないからこそ写真を撮っている、ほとんどの場合はそうではないでしょうか? 写真は言葉よりも多くを感じてもらえると言われたりもします。だから言葉にする必要なんてない、という人もいると思います。もちろん、それでよいのかもしれません。

 

でも、そうであるなら、裏を返せば、その人にとって写真が言葉と等価であるということを自ら証明しているともいえます。言葉にも写真と同じように力と無限の可能性があるはずだからです。優れた詩を見聞きしていつの間にか画(≒写真)を心の中に思い浮かべてしまうのに似ているかもしれません。そんなふうに写真と言葉が互いを置き換え合えるものであるならば、その人が紡ぐ言葉はその人が捉える写真と同じものを表すはずです。ただ、それには時間がかかるかもしれません。

 

ゆえに「何をどう見ているか」が、写真と言葉の片方だけではなく、どちらからも浮き上がるようになるなら、その人は自身にしかできないことをしているのだと思います。さらに、写真の本質である「時間」を備えることができるなら、それはおそらく人間にしかできないことのひとつになる気がしています。

 

 

それでは、写真が「時間」であるとはどういうことでしょうか。それはまた別の話。