あわじしま報知

先日、訳あって故郷である淡路島の地元紙に寄稿したのですが、それに加筆修正した文章をこちらにも掲載してみます。

 

 

淡路島を離れてから今年でちょうど25年になります。震災の年に大学にあがってからそのまま大阪で暮らしています。35歳までデザイナーをしていましたが、いまは写真の仕事をしていて、月のほとんどを東京やそのほかの場所を行き来しながら過ごしています。

 

当然たくさんの人に「なぜ東京に住まないの?」と聞かれます。ご存知かもしれませんが、写真産業は東京に一極集中していて多くのフォトグラファーたちはそのコミュニティやサイクルのなかで活動しています。そうすることが当たり前のこととされているのです。毎週大阪から通う手間暇を考えれば明らかに効率的ではないし、東京に住んでいないという事実によって失う仕事も多いです。それでもそうする理由のひとつは「東京から離れた場所でも自分にとって価値のある仕事はできるのではないか」という仮説のような目標をたてているからなんです。そして、ゆくゆくは故郷である島にベースを置きたいと思っています。つまり、むしろ東京から離れた場所に、です。

 

ところで、みなさんは写真の醍醐味はなんだと思いますか? 思い出を残せるところ、その一瞬を誰かと共有できるところ、いろいろあると思います。私は、勝ち負けではなく異なるものの見方を提示できること、それをしてもよいところに写真の真価があると思っています。例えばテーブルの上のコップを撮るとします。10人いれば10人違う写真になりますよね(たぶん)。横から撮る人、真上から撮る人、すごく近くで撮る人、きらめく水の光を撮る人… さまざまです。もっと言えば、コップを撮る必要だってないのです。実は。例え写っていなくても「感じてもらう」ことができるのが写真でもあるのです。

 

というように写真は、その人自身のものの見方が如実にあらわれる表現なんですね。それぞれの生き方や個性があるから、そうなるのは当然なのです。誰もその生き方に順位をつけたりすることができないのと同じように、写真にも勝ち負けはないはずなんです。誰とも競わず、それぞれの存在を肯定し互いの多様性を受け入れて認め合うことができる、それこそが写真の価値なのだと思っています。どうでしょうか?

 

わたしたちは生まれてからずっと当たり前のように「勝つことが良い、負けることが悪い」とされる世界で生きているように思います(スポーツなどの競技はもちろん別ですが)。わたしが「東京」に属さず活動する理由はまさにそこにあります。熾烈な競争社会に組み込まれずに自分の価値を表現しながらはたらく。100パーセントはむずかしいかもしれませんが、すこしでも叶えるためにつづけています。

 

長い時間がかかりましたが、わたしがこのような生き方になれたのもゆるやかな風が流れる淡路島で育ったからかもしれない、今はそう思います。近い将来、淡路島に帰ったら、またその風を感じるのを楽しみにしています。

 

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と、そんなこと考えていたら、世界的な感染症でたいへんな状況になってしまいました。これを書いている今日、緊急事態宣言が発効されました。大都市に近寄れないどころか、家からも出られないのです。この事態が終わるころには、これまでのあらゆる価値観をガラッと変えることになるでしょう。予期せぬかたちになりましたが、わたしたちは大都市に頼らない働き方を考えざるを得なくなったのだと思います。